人は映画の中に自分を見る~映画「Michael/マイケル」を観たあと73人と対話して見えたこと~

先日、映画「Michael/マイケル」を観てきました。
言わずと知れた大スター、キング・オブ・ポップのマイケル・ジャクソンの光と影とスター誕生の軌跡を描いた伝記映画です。
私はこの映画の公開をずっとずっと心待ちにしていました。
映画は夢中で観ました。音楽に、物語に、言葉に、表情に、ひたすら心が揺さぶられました。
そして観終わったあと、私の中に残ったのは胸の苦しさでした。
もちろん素晴らしい映画でした。
でもその感想を「感動した」や「面白かった」で表現すると、その一言では収まりきらない想いを感じました。
映画そのものは、決して彼の不幸だけにスポットライトを当てた作品ではありません。
むしろ彼の才能や努力、成功の軌跡も丁寧に描かれ、煌びやかなステージのシーンもある。
それなのに、私はずっと胸が苦しかった。
映画館を出たあとも、その感覚だけが消えませんでした。
栄光のシーンなのに苦しかった
映画の中には、マイケルがスターへの階段を駆け上がっていく場面が何度も描かれています。
熱狂的な観客の歓声。
眩しいスポットライト。
才能が認められ、多くの人々を魅了していく姿。
自分の中に湧き上がる想いを表現する喜び。
そしてそれが多くの人に受け入れられる充足感。
本来なら胸が熱くなる場面。
高揚感でいっぱいになる場面。
それなのに私は、彼が注目されればされるほど苦しくなり、涙をこらえて観ていました。
考えてみれば当然なのかもしれません。
2009年6月25日。
あの日、世界中を駆け巡ったニュースを、私は今でも覚えています。
あの悲しい未来を知っている場所から、私はこの映画を観ていた。
彼がどれほど高く昇るのかを知っている。
そしてその先に待っているものも知っている。
だから歓声が大きくなるたびに苦しくなりました。
ただただ、少年だった
映画を観ていて何度も思たことがあります。
それは、マイケルはただただ、純粋で心のきれいな、少し臆病な少年だったということ。
途方もない才能を持って生まれ、途方もない富と名声を手に入れた。
けれど彼の心は、あまりにも繊細でピュアだった。
映画の中のマイケルは、世界的スターになっても
自分を強く主張し奢り高ぶるというより、周囲の大人を頼る場面が何度も描かれていました。
私はそれを弱さだとは思いませんでした。
むしろ、純粋さだと思いました。
何度も「ピーターパン」の絵本を読み、想いを馳せる。
おもちゃ屋さんではしゃぎ、ぬいぐるみやおもちゃに囲まれた部屋や病室で過ごす。
動物を愛し、子どもたちに快くサインに応じる。
病気の子どもたちに心を寄せ、一人ひとりを訪ねてまわり、多額の寄付をする。
すべて彼の優しさであり、純粋さだと感じ、そこに一人の少年の姿を観ていました。
そしてその純粋さが、この世界ではあまりにも無防備に見えました。
私たちは大人になる過程で、少しずつ鎧を身につけながら成長していきます。
傷つかないために。
利用されないために。
自分を守るために。
けれど彼は、その鎧を十分に纏わないまま大人になってしまったように見えました。
だから私は、映画を観ながら何度も思ったんです。
ネバーランドに返してあげたい、と。
きっと彼の本当の居場所は、そこなんだと。
Threadsに書いたら、たくさんの反響が。
映画を観終わったあと、自分の感じたことや考えたことを整理したくてThreadsに感想を書きました。
すると、予想外の反響がありました。
私のThreadsはフォロワー数が2桁の、こじんまりとした小さなアカウントです。
それがこの投稿は、
表示回数が数万回、トータルで700件を超えるいいねが付き、多くの方がコメントを寄せてくださいました。
そこで、私はあることに気付きました。
それは、人は映画を観ているようで、自分自身を観ているのかもしれないということです。
「人は映画の中に自分を見る」ということ。
コメント欄を見ていると、同じ映画を観ても受け取るものは人によって全く違うようでした。
ある人は「父親との関係性」を見ていたし、
またある人は「スターの孤独」を見ていました。
「純粋さゆえの苦悩」を見ていた人もいたし、
「自分自身の子ども時代」を重ねていた人もいます。
なかには「天使のような存在」として語る人もいました。
同じ映像を観ているはずなのに、見えているもの、感じたことは人それぞれ違うのです。
もしかしたら、人は映画を観ているようで、その中に自分自身を見つけているのかもしれない。
だから同じ作品を観ても、受け取るものが違う。
映画はスクリーンに映る物語ではなく、自分自身を映し出す鏡なのかもしれないなと、思ったのです。
私は何を見ていたのだろう
では、私は何を見ていたのだろう。
類稀な才能をもつ、キングオブポップのマイケルジャクソンだろうか。
そうではなかった。
私が見ていたのは、彼の中に存在する純粋な、守るべき少年でした。
もちろん私は、彼の人生の真実を知りません。
彼が本当に幸せだったのかも分かりません。
世間で語られる評価も、称賛も、批判も。
それらはどれも、語れるほどの知識はもっていないし、追及するつもりもありません。
それでも映画を観ながら、私は何度も思っていました。
「この少年を守りたかった」と。
純粋で、少し臆病で、人の痛みに敏感で、
人より少し、多く心を使ってしまう少年。
それが、この映画を観ながら感じていた苦しさの正体だったのかもしれません。
この少年が幸せであってほしかった
映画を観終わったあと、私の中に残った感情は
ただただ、「この少年が幸せであってほしかった」という願いでした。
類稀な才能を持って生まれたこの少年の人生が、幸せなものであってほしかった。
それだけでした。
コメントをくださった人たちも、もしかしたら同じだったのかもしれません。
マイケルについて語りながら、自分自身の中にいる誰かを見ていたのだと思います。
もしかしたら、みんな心のどこかに守られなかった子どもを抱えているのかもしれません。
それは特別辛い生育環境があったという意味ではありません。
大人になる過程で、
本当は言いたかった言葉を飲み込んだこと。
本当はやりたかったことを諦めたこと。
期待に応えようとして、自分の気持ちを後回しにしたこと。
そんな小さな積み重ねの中で、私たちは少しずつ大人になっていきます。
だからマイケルに涙する。
彼の純粋さのなかに、そんな自分の中にいる守られなかった子どもを見つけ、
胸を痛め、「幸せであってほしかった」と願わずにいられない。
みんなマイケルについて語っているようで、実は自分自身について語っていたのだと思います。
そして私もまた、マイケルについて語りながら、自分自身のことを語っていたのだろう。
コメントをくださった方々の言葉を読んでいて、そう感じました。
映画を観て、感じて、それを綴ってみたことによって生まれた対話。
それは私に思いがけない気付きをもたらしてくれました。



